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ベルリンの壁を越えて~ダンサーたちの生きた冷戦時代 in 東西ドイツ~ (2011)
深川秀夫講演会
「ベルリンの壁を越えて~ダンサーたちの生きた冷戦時代 in 東西ドイツ~」
~ダンサーたちの生きた冷戦時代~
(小田高司氏より寄稿)
2011年に3月、アカデミー国枝バレエ後援会は深川秀夫講演会「ベルリンの壁を越えて~ダンサーたちの生きた冷戦時代 in 東西ドイツ~」を開催しました。
アカデミー国枝バレエ講演会会長としてこの30余年、深川氏と歓談、会食する機会は多数に及び、家族以外との会食回数は深川氏がダントツ一番でしょう。こうした会食の際に深川氏から東ドイツ時代の話を何度か聞いていました。
2011年に映画「小さな村の小さなダンサー」が公開されました。この映画は中国の少年が政治や国の壁をのり越え、ついにはオーストラリアでダンサーとして活躍する、素晴らしくもあり、同時に多くの問題を提起する映画でした。"政治、国の壁、芸術、バレエについて生徒たちに改めて考えて欲しい"と考えこの講演会を開催しました。
当時、私が作成したチラシには、「私たちがバレエレッスン、振付で大変お世話になっている深川秀夫先は,ドイツがまだ東と西にベルリンの壁で分断されていた時代に、東と西、二つのドイツで政治や国境を超えて活躍されました。その貴重な体験をお話しいただき、政治、国の壁、芸術、バレエを改めて考える機会とし、また、秀夫先生と皆さまにワインを片手に歓談していただける"深川秀夫氏を囲む会"を企画しました。皆さまのご参加をお待ちいたします」と書かれていました。
会の終了後、深川氏のお気に入りの鉄板焼きに席を移し、深川氏、国枝真才恵(アカデミー国枝バレエ主催、小田の家内)と私の歓談は深夜に及んだのですが、その席で、「小田先生、ボクが死んだら今日の話、色んな人に知って貰える様にして貰えない?」のお願いがありました。
みんな、ニジンスキー賞受賞、東ベルリンコミッシュオペラに入団って言うと華やかなイメージしか持たないでしょうけど、最初の役は"海(うみ)"のコールドバレエで、アイン・ツバイ・ドライと青い衣装で波をやらされて、「ニジンスキー賞で波かよ」と思ったとか、「分かった振りして、"ヤーヤー"とか言ってたけど、ドイツ語、分っかれへんかったし・・・」など、常の深川氏からは出てこないような発言の飛び出した一夜でした。
あの日、あの夜、東ドイツの日々を語る事で深川氏は、人々、特にバレエを志す若者に何かのメッセージを送りたかったのだろうと想像しています。
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~ダンサーたちの生きた冷戦時代~
深川秀夫(講演会抄録)
当時、国交が無かった東ドイツだったが、ユルゲン・シュナイダーの"芸術に国境は無い"との信念に基づく尽力で1969年にボクはベルリンコミッシュオペラ*に入団した。ユルゲンの自宅に下宿させてもらった。生活はバレエ漬けの状況。午前10時にバレエ団のレッスンが始まり、バレエ団としては、午前のレッスンの後は17時からのレッスンあるいは公演となる。ボクの場合は、ユールゲンが「次回のヴァルナ国際バレエコンクールで秀夫を優勝させる」の強い決意を持っていたので、午前のレッスンに引き続いて、午後もレッスンを受ける毎日でだった。「深川氏は1970年の第5回ヴァルナ国際バレエコンクールで男性の1位なしの2位となり、ベルリンコミッシュオペラソリストとなった。ちなみに、同大会1位、ゴールドメダルは故エヴァ・エフドキモワ氏で、深川氏は後年、大塚礼子、国枝真才恵とともに開催する八ヶ岳バレエセミナーにエヴァを2回、講師として招聘することになる(著者注)」
西ドイツの領事館からは、「東にいては、何か起きても助けてあげられない」と言われていており、大変、心細かった。ただ、日本のパスポートがあったので、ベルリンの壁を越えて西ドイツに買い物に行くことが可能で、日曜には、皆に頼まれて、コルゲート(歯磨き粉)、ネスカフェを買いにいかされた。当時は気づかなかったが、西に行く時は、秘密警察の尾行があった。ベルリンを去る直前に、全ての自分の行動記録を警察から見せられたことで秘密警察の監視があったことがわかった。バレエ団の事務のおばさんが秘密警察のスパイだった。
ベルリンコミッシュオペラ在席中に、フィンランドで公演があった。この時代、フィンランドに理由をつけて正式に出かけ、到着後に西ドイツの領事館に逃げ込むことが亡命の一つの方法で、この公演では、11名が亡命した。ユルゲンもひそかに家財を売り払い、フィンランド公演に出かけた。飛行場では、機内で2~3時間、待ち時間があり、団員、特に亡命を意図していた団員には大変なストレスで、あの緊張間は言葉では表現出来ない。こうした国の壁、亡命、国を捨てる想いは2007年に振り付けた"新たなる道**"のモチーフとなった。長い機内での待ち時間の後、荷物チェックがあり、やっと出国できた。離陸した時の同僚の喜びの様子は今でも忘れられない。フィンランドの公演では、毎日、人が抜ける(亡命のため)ので、一人何役もおどり(男性は5人分を4人でカバー)、公演を行った。
ベルリンに帰ってからは、11名の亡命で大幅にバレエ団員が減り、秘密警察の調査もあった。
そんな状況下で、ロンドンで、Richard Buckle's Diaghilev Gala Evening at the Coliseum(ロンドンから持ち出された芸術品を買い戻すためのガラ公演***)があり、ボクはそこで踊るためにロンドンに旅行した。ロンドンのガラ講演の後、ジョンクランコに誘われるままに、夜逃げする形でベルリンを去り、シュトゥットガルトに移動した。
シュトゥットガルト・バレエ団*では、これまでのロシアバレエで経験したことのない、"踊りでドラマを表現すること"を学び、当時シュトゥットガルト・バレエ団の初めてのアメリカ公演で、じゃじゃ馬ならし、オネーギンが大ヒットとなり、バレエ団が世界的に有名となったこともあり、ボクも世界中で踊ることが出来た。
クランコは大酒のみで、朝のレッスンにも酒を飲んで現れた。また、よく、ボクの運転するボクの愛車、"ヨーロッパ第1号の紫のカローラ"で市内から13キロはなれたギリシャレストランまでクランコとドライブし、ギリシャレストランではウゾーとビールを飲み、ギリシャダンスをして、皿をわる様な食事をしていた。食事の後、また13キロを酔っ払い運転して町にもどり、反対側の山の上にあるジョン家まで送って、自宅に帰ると朝の4時ということもあった。こうした機会にもクランコとの話からは学ぶ事が大変多かったし、クランコは大変教育的だった。酒席の会話の中でも、クランコの芸術性に感動させられることが多々あった。
シュトゥットガルト・バレエのニューヨーク公演には同行しなかった。それは、4番目の役しか与えられなかったので、ニジンスキー賞の受賞者として、踊ることを潔しとしなかったためだった。そして、ジョンは帰りの飛行機の中で急死した。
ジョンの死後、シュトゥットガルト・バレエ団*のクランコの後任の芸術監督と芸術的に合わないことが分かっていたので、ミュンヘン国立バレエ劇場のディレクターがボクの舞台をみて、プリンシパルで迎えてくれたこと、ミュンヘン国立バレエ劇場がジョンの数作品をもっていたこともあり、ミュンヘンに移動した。
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「今日は本当にみんなと話しできて楽しかった。ミュンヘンに行ってからのお話しもまたの機会にしたいね。今日は、本当に、みんな、ありがとう」が深川氏の講演会のくくりの言葉でした。
秀夫先生のご冥福を心よりお祈りします。
2020年10月8日
アカデミー国枝バレエ講演会会長 小田高司
∗∗ 振付;深川秀夫 故郷を捨て、姉妹のみで異国に旅立つ娘たちを描く 2007年12月、アカデミー国枝バレエ公演で初演 ∗∗∗ 「地上で最も偉大なショー」 (1971)