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ミュンヘン 舞台前と舞台裏 (1980)
南ドイツ新聞 1980年4月12日
「白鳥の湖」の道化は、彼の最もお気に入りの役であったから、ミュンヘンに別れを告げ る時にもきっぱりと道化役を望んだ。バイエルン国立歌劇場のソロ・ダンサー、深川秀夫 (30)は、彼の故郷・日本で自身のバレエ学校を設立するために、まもなく帰国する。昨 金曜日の夜、ルーマニアのダンサー、クリスティナ・サルの客演での「白鳥の湖」で、深 川はナショナル・シアターで最後に、アクロバティックな洒落た踊りを存分に繰り広げた。 この華奢なアジア人=ここミュンヘンのバレエ界では唯一の日本人=がいなくなると人々 は悲しむだろう。彼の信じられないような跳躍、機敏さ、ユーモア、道化の悲しげな表情 から異国的な冒険の匂いのする挑戦的な粗暴さまで表現の幅広さを。この7年のミュンヘ ンとの契約期間で、深川秀夫はダースを超える役柄で観客を仰天させ、拍手の嵐に巻き込 んだ。彼は、1973 年にクランコのシュトゥットガルトのカンパニーから、クランコの亡く なった後、トレーナーのユルゲン・シュナイダーと共にミュンヘンにやってきた。ユルゲ ン・シュナイダーは、東ベルリンのコミッシュオペラで深川を見出し、シュトゥットガル トに一緒に連れて行ったのである。その当時すでに、深川は数多くの国際コンクールの受賞者であった:ヴァルナの銅、モス クワの銀、そしてヴァルナの銀、東京での1位、1969年のニジンスキー賞。この 10 年以 上のソロ・ダンサーとしての豊かな経験の宝と、彼のトレーニング帳を日本へ持って帰る ことになる。この3年、深川は彼自身のバレエ学校とカンパニーを立ち上げるべくプラン を練ってきた。あらゆる道筋を使って準備してきた。 U.S.Aに似て、日本の芸術分野でも経 済的に強い支援者を獲得することが重要な役割を果たすと深川は語る。 深川は、日本で市場の穴場に身を置くわけではない。「東京にはいたるところにバレエ学校はある。しかし、僕と2人の同僚とに、もうすでに 150 人の生徒がいるとは驚いている。」 もちろん、彼のシュトゥットガルトやミュンヘンや世界中の客演で成し遂げたイメージが、 日本での成功を約束するスタートに本質的に寄与していることは間違いない。
彼の東方の故郷では、バレエ界はどんなだろうか?深川曰く: 「20世紀への変わり目頃から、 ヨーロッパの舞踊芸術は我々のところでも踊られるようになった。パヴロワや偉大なダン サー達の来日公演が昔からあった。東京には今、7~8つのカンパニーがある。皆、プラ イヴェートであるが。公演のためには、劇場を借りなければならず、ツアーにも出かける。 日本のバレエは、ロシアとイギリスの伝統とを混ぜたスタイルで、ここと似ている。」 深川はあと6年ぐらいは踊れると考えている。今からは、より多く日本で踊ることになる、 彼の生徒や、その時々に応じて集められた才能とで構成されるグループと共に。「ライモン ダ」で、すでに公演が打たれた。しかし、毎年一か月は、これからもヨーロッパで踊りた いと考えている。ミュンヘンでの再会があるかは、まだ不確実である。今、深川は少々、哀しげに別れを告げる。彼の大事な師・クランコのバレエ作品の役、バランシン、ルボヴ ィッツ、ノイマイヤー、ライト、アシュトンの役は、他のダンサーが受け継ぐであろう。 深川秀夫は、バイエルン国立歌劇場のバレエに、良き未来と、シュトゥットガルトのバレ エ団が常に行うような外国への客演を望んでいる。彼は多くの想い出とともに旅立つ...数 年前、彼が「リーズの結婚」でアキレス腱を切った時、ナショナル・シアターの上の階の 客席まで聞こえたあのパチンという大きな音も耳に。その後、数か月の休みを余儀なくさ れた。しかし、とっくの昔にアキレス腱は回復し、以前より強くなり、彼はきっともっと もっと飛ぶであろう。
シャルロッテ・ネンネッケ