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ミュンヘンのバレエにとっての大いなる損失 (1979)
ダンサー、深川秀夫は 1980年、日本に帰国
ミュンヘンは素晴らしいダンサーを失うことになる:観衆のアイドルだった深川秀夫は、 今シーズンの終わりに、故郷で彼自身のバレエ・スタジオを開くため、日本へ帰国する。 ダンサーとして、また客演したいと思っているが。
深川秀夫は、国立劇場総支配人、アウグスト・エヴァーディングに宛てた手紙に、1980年 8月に失効するバイエルン国立歌劇場との契約をもう延長することは考えていないことを 記した。同時に 1980年7月に、ナショナル・シアターでのお別れ公演を希望した。そこで、 彼の当たり役だった「白鳥の湖」の道化役をもう一度、踊りたいと。
深川秀夫は、日本で越智実の元でバレエを学んだ後、東ベルリンのコミッシュオペラでユ ルゲン・シュナイダーの元で研鑽を積んだ。彼のデビューは 1966 年東京バレエで、1969 年コミッシュオペラへ行き、1971年にはシュトゥットガルト、そして、1973年からミュン ヘンと契約していた。パリ、ニューヨーク、東京など数多くの客演もあった。1968年の 東京のバレエコンクール1位、1967年ヴァルナの銅メダル、1969年モスクワの銀メダル、 同じくセルジュ・リファールよりニジンスキー賞、1970年ヴァルナの銀メダルと数多くの 受賞歴もある。
小柄なこの日本人は個性派ダンサーとして名を成している。非常に表現豊かな、ほとんど アクロバットと言える身体言語と素晴らしい跳躍力も持つ。「白鳥の湖」での道化、「眠り の森の美女」での青い鳥、クランコの「カルタ遊び」でのジョーカーなどで、いつも大喝 采をさらっていた。
深川秀夫は、AZ新聞にエヴァーディングに手紙を書いたことは認めた。それ以上は、 ミュンヘンを去ることについて語ろうとはしなかった。しかし、このダンサーが、軽んじ られていると感じていたかもしれないことは理解できよう。近頃は、バレエ・ディレクタ ーのリン・セイモアに・・・他のミュンヘンのソリストたちも同様・・・あまりにも不当に、踊ら せてもらえなかった。徹底的に出番が少なかったと言えるだろう。いずれにしろ、今の破 壊的なミュンヘンのバレエ界にとって、深川の決心は重い一撃になるだろう。リン・セイ モアは、この損失に責任を持って対処しなければならない。
カーステン・ペターズ