LIBRARY
シュトゥットガルト・バレエの解約 (1973)
不必要な瀉血(血を抜く治療)
ジョン・クランコの振り付けによるモーツァルトの「フルートとハープのためのコンチェ ルト」は、今では我々のバレエのレパートリーの中でも圧倒的輝きを放つものとなった。 輝き磨き上げたのはバレエ・マスター、ユルゲン・シュナイダーである。彼が、シュトゥ ットガルト・バレエのソリストの中でも、マルシア・ハイデ、ビルギット・カイル、ユデ ィット・レイン、リチャード・クラガン、エゴン・マドセンといった宝石たちをなお一層、光輝かせたのである。かのウラノワでさえ、今日のシュトゥットガルトのダンサーたちの 上半身の姿勢には不愛想な小言は言わないであろうほどにしたのも、ユルゲン・シュナイ ダーの功績である。
それだけに、この男がヴェルッテンブルグ国立歌劇場との契約を更新しないと決めたのは、 いっそう残念である。理由というのは、個人的でも制度上の本質でもある。トレーナーと しての資格をレニングラードとモスクワで取得した 36歳のバレエ・マスターは、1971 年 までの人生を東側で過ごしたのだが、交流関係を広げたいという希望がある。当時、シュ ナイダーは、彼に付いてきたダンサーたちもだが、東ベルリンのコミッシュオペラのヘルシンキ客演の後、西側に留まる決意をしたのである。それ以来、彼はシュトゥットガルト で生活し、働いている。
最大限に働けていない
制度上の問題については、シュトゥットガルト・バレエには三人のバレエ・マスターがいることを知っていなければならない: シュナイダー、アン・ウーリアムスとアラン・ビー ルである。彼らの仕事は、バレエ・学校でのレッスンの他、カンパニーのダンサーの毎日 のトレーニング、配役の交代に伴う役の振り付けを教えることと、レパートリー作品を磨 き上げることである。最後の意味するところは、リハーサル室でのそれぞれのバレエを舞 台で最高に輝かせられるように持っていくこと、振り付けのオリジナルな状態を守り保っこと、および、姿勢やステップを踏むダンサーたちの誤りを除くことである。
「フルートとハープのためのコンチェルト」を除いては、アラン・ビールにより、小ホー ルの舞台でのバレエが、アン・ウーリアムスにより大ホールの全てのものは「磨き上げら れていた」。彼女は、その他にも、少なくとも週に3回はカンパニーのトレーニングをし、 ほとんど全ての役替えによる振付を覚えさせることにも携わり、バレエ学校で教え、この 学校の長としてのしかかる管理事務の仕事も果たさなければならない。彼女自身、繰り返し、仕事が多すぎることを訴えていた。しかし、仕事範囲を 3 人のバレエ,マスターで明確に分担しようというユルゲン・シュナイダーの要求は、今日までかなえられなかった。
ダンサーたちは諦める
シュトゥットガルト・バレエでは、一方の手がもう片方の手がやっていることを理解して いないので、シュナイダーは諦めた。似たようなことが、1月末に契約を更新しないダンサ ーたちにも当てはまる。大騒動になったのは、その中に深川秀夫がいたことだった。彼は ドイツのバレエ批評で、1972年の新進ベスト・ダンサーに選ばれていたのである。その他 にも5つの国際的な賞に彩られた 23歳のダンサーが、シュトゥットガルトでは、彼の能力 相応には踊らされていなかった。彼は、ジョン・ノイマイヤーの評判からハンブルグに行 くのではと思われる。 シュトゥットガルト・バレエにとり、非常に重い大きな損失である。その上、ドイツ人の 女性ソリストたちも辞めるという噂が確かであったなら、ドイツ人はシュトゥットガルト・バレエでは何もなすことができないという偏見が広まるのも避けられようがない。
ハインツ・ルートヴィッヒ・シュナイダース