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The Flying Japanese (1971)
Dancing TIMES 1971 August
深川秀夫のキャリア
ジョン・グレゴリー 筆
深川秀夫は1949年8月23日に日本の名古屋市に生まれた。8番目の子として誕生し、両親は50代で兄弟姉妹は彼がまだ赤ん坊の頃、既に成人していた。(訳注1)子供のころは、友人の両親に比べて自分の両親が祖父母に見える事が少し恥ずかしかった記憶がある。そのようなハンデを抱えながらも幼少期から才能に恵まれていた。家族は熱心な日舞のアマチュアの踊り手で、幼少期は東洋の民族的な踊りの中で育った。幼すぎて参加できず、憧ればかりが大きく募り、その感情がある日思いがけない形であふれ出た。
秀夫のダンスの世界へのより大きな好奇心は映画〝赤い靴″の到来によって目覚めた。突然周りにいる全ての少女達がバレエダンサーに憧れ始めたが、どういう訳か男の子が憧れる事は正しくないように思われた。秀夫は疑いを持った。それでも自分の中の何かが外へ出たいと言って彼を悩ませた。成長するにつれてより多くのテレビで放映される映画に魅了されるようなった。彼はもはや無視できない、やむにやまれぬ衝動を感じ始めた。彼に何が出来るのであろう?
越智先生は、地元のバレエ教師だったが、そこで何が教われるのか秀夫には知りようもなかった。14歳の時に秀夫は緊張して彼に電話をかけた。越智先生に「バレエ教室には男性のダンサーはいますか?」と単刀直入に訊ねた。越智先生は答えた。「1人いるよ」不安に思いながらも秀夫は教室の2番目の男子生徒になった。深川家は保守的な考えを持っていたので、家族にとっては大事件だった。家族としては秀夫にレストラン経営者になって欲しいと思っていた。しかし家族は、秀夫の人生なので彼の思い通りに進む事が一番だと決心した。
本物の才能というのは一握りだ。バレエダンサーがぶつかる障害の数々を考えてみよう。どんなに沢山の本物の才能が、粉引き器に入れた穀物みたいに粉々にせれ、失われてしまっていることだろう。越智先生がヴァルナ国際コンクールの宣伝が載ったダンス雑誌を目にすることがなかったら、秀夫は今頃どうなっていたのか?信じられない程の純真さと盲目なまでの信念を持ち合わせる越智先生と秀夫が日本からコンクールに出発した。おそらく越智先生は、二年の付き合いのこの少年の中に、自分が育てるには限界のある何かを彼が持っていると感じていたのではないか。
秀夫はヴァルナにはよく理解していないまま参加していた。彼はコンクールで1位を獲る夢など一度も見たことがなかったが、見聞きしたことのある有名なダンサー達を目の当たりにし、とても興奮した。彼の踊る番が来た時、そのような場所に立っている喜びを無意識に感じ、鳥の様に飛び回った。ただ幸福感から踊った。彼の生まれつきの驚くべき才能が彼に銅メダルをもたらした。何という驚き!何という喜び!そしてこれで終わりかと思われたが、東ベルリンからコンクールに参加するチームを連れてきていた若いドイツ人のバレエマスターであるユルゲン・シュナイダーの肥えた目は違っていた。
シュナイダーは陽気で小柄な日本人と知り合い、秀夫にもっと良いトレーニングが必要だと言い聞かせた。秀夫はそのことに気付き始めていたが、悲しいかな日本での教育を終えるために帰国しなければならなかった。その後四年間、彼らは文通により連絡を取り続けた。そして運命的にモスクワ再会を果たしたのだが(訳注2)、その前に秀夫は東京新聞主催全国バレエコンクールで第一位を獲得していた。この頃から秀夫の両親は彼の劇的な変化に驚いていた。両親は、より男性的で報酬も良いアイスバレエに転向するように秀夫を説得した。しかし秀夫には他の考えがあった。
ユルゲン・シュナイダーはモダンダンスにおいて、ウィグマン・スタイルを歩み始め、後に自分のダンス・スタイルを発見した。彼は初めワイマール国立劇場のソロダンサーであり、後に東ベルリン・コミッシュオペラに移った。ソヴィエトがボリショイ・バレエ団を東ベルリンへ連れて来た時、自分が待ち望んでいたものはこれだ!と感じ、コミッシュオペラの幹部に掛け合い、モスクワで勉強することの許しを得た。ボリショイ・バレエ学校で4年間過ごし、ソヴィエト式バレエ教授法の資格を取得した。この間、彼は主にボリショイ・バレエ学校の芸術監督であるニコライ・タラソフに師事し、学んだ。後に一年間レニングラードでプーシキンの下で働いた。
1969年、ユルゲンはモスクワ国際コンクールに参加する様に秀夫に手紙を書いた。秀夫は三週間前にモスクワ入りし、ユルゲンと毎日黙々と練習に励んだ。結果は目覚ましいものだった。プロの指導を受けていない未熟な少年が銀メダルを獲得するなんて!モスクワの雑誌〝Theatre″で、評論家のリヴィラ・アノチンは彼を〝the flying Japanese″と名付けた。シュナイダーはすぐにロシアのどこかのバレエ団に秀夫を入団させたいと考えたが、秀夫の国籍の問題と不明な理由のためにそれは認められなかった。
シュナイダーは遂に東ベルリン・コミッシュオペラの監督が秀夫を採用するように説得し、翌年ユルゲンと練習を重ね、そのバレエ団でセンセーショナルなデビューを次々に果たし、パリのニジンスキー賞を獲得した。1970年ヴァルナ国際バレエコンクールの時がくるまでには、経験においても専門性においても、とてつもなく成長していた。彼はダイナミックなジュッテとしなやかで躍動的なポール・ド・ブラにおいて個性的なスタイルを確立した。これらの技術、そしてワクワクするような人柄とユーモアとチャーミングさで、彼は一躍コンクールの人気者になった。
男性陣の中で1位になり(金メダル該当者なし)、銀メダルを受賞したが、もし観客によって投票が行われたなら、間違いなく金メダルを獲得していたはずだ。
アーノルド・ハスケルは〝Dancing Times″の11月号でヴァルナ国際バレエコンクールでの秀夫について言及した。〝深川秀夫には驚いた。観客と一体となり、彼の輝きと勢いを全体にもたらし、若き日のアントン・ドーリンを彷彿とさせた。″秀夫は間違いなく非凡な人間だ。シュナイダーは謙虚にこう言う。〝私にとって彼を教えることは大きな喜びだが、彼は本能的に何が自分にとって正しいのか分かっているだろう。有能な教師ならだれでも、秀夫を素晴らしいダンサーにできるだろう。″
ヴァルナ国際バレエコンクールの後は東ベルリン・コミッシュオペラに戻り、バレエ団と共にエジプト、ソフィア、ヘルシンキ等へ公演をしに訪れたが、全て良い事ばかりではなく、制約や拘束もあり、抑圧感を紛らわすのは簡単ではなかった。秀夫は西側へ行きたかったが、ユルゲンの方は憂鬱だった。なぜなら彼は国境を越えて旅をする事が許されていなかったから。
ヘルシンキで決断の時が来た。ユルゲンは亡命した。二週間後、秀夫も東ベルリンを去った。彼らはロンドンで再会した。予告なしで、秀夫はリチャード・バックルのコロシアム現れた。彼の最初のソロは、センセーションを巻き起こした。その時、彼はアントン・ドーリン自身によって指導を受けたブルーバードを踊った。
才能がある二人の芸術家にどんな未来があるのだろうと人は思う。ユルゲン・シュナイダーは一年契約でシュトゥットガルト・バレエ団で教えることになった。現在のところ、秀夫には所属先がない。しかし彼は程なく決まると思う。彼はエヴァ・エドキモアの大ファンで、今後10年で身長が5センチほど伸びて、ジゼルで彼女とパートナーを組めるであろう。個人的にはキューバの若きバレリーナ、カリダッド・マルティネスと組んで踊るのを見てみたい。彼らのエキゾチックな個性がぴったりと合っていると思うから。それまでは、小柄な日本人がまもなくシュトゥットガルトへやってきて、トレーニングを続けてくれることを心待ちにしている。
訳注1: 実際は、両親は40歳前後で兄弟姉妹はまだ成人していない。
訳注2: 生前の本人の弁や当時の越智先生のところで共に学んだ仲間の言、他の新聞記事によると、秀夫とユルゲン・シュナイダーが初めて出会った場所は、1969年モスクワ国際コンクールであったようだ。