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東ベルリンのダンサー達がシュトゥットガルトに逃げてきた (1971)
そのバレリーナについてはでっち上げ記事だった
ノヴェール・バレエへの良き補充
5月末、東ベルリンのコミッシュオペラ・バレエ団の8人の団員が、ヘルシンキへの客演の 間に西側へ亡命した。そのうち 6 人がシュトゥットガルトに来た。ノヴェール協会は彼ら を受け入れた。ノヴェール・バレエは、3人のダンサーと、ユルゲン・シュナイダーという トレーナーとの来季からの契約を交わした。彼らは芸術上の困難があったため、東ベルリンを去ったのだ。
東ベルリンのコミッシュオペラのバレエは、「劇場バレエ・アンサンブル」と名付けられて いるが、東ドイツでは最良のカンパニーと言われており、東ドイツで最高の才能と言われ る振付家トム・シリングが率いている。似たことが、前バレエ・マスターでありチーフ・トレーナーのユルゲン・シュナイダーにも当てはまる。東独で最高のバレエ教育家と言わ れていた。例えば、1969年、東ベルリンのダンサー達が、大変、やっかいな、バレエ技術 的にも非常に難しいストラヴィンスキーの「カルタ遊び」を公演成功に導けたのは、もち ろん彼の功績が確かにあったでろう。
30歳になる彼は、モスクワとレニングラードでロシアのバレエ教育、いわゆる「ワガノワ・ システム」で学んだ。ここノヴェール協会の内輪の催しにて、彼がそれを見事にマスター していることは確信できた。それ以上に、彼はダンサー達と上手くやっていくコツもおそ らく理解している。ノヴェール・バレエは、トレーニングのスタイルにおいで、もちろん イギリスのロイヤル・バレエに方向づけられている。それは、多少なりとも本質的な局面 でロシア式と異なる。しかし、プロとしておそらく熱心なこの著者が、シュトゥットガル トで成果を上げる支障にはなるまい。我々が彼から見たものは、彼が順応できればだが、 むしろ彼のトレーニングのやり方が、今までシュトゥットガルトで行われてきた練習法の補整あるいは補充になりうると結論づける。特に、彼がどれだけ正しい美しいポール・ド ゥ・ブラ(脇の運び)に価値を置くかは、大変、我々の気に入るものだった、それは、残 念ながらシュトゥットガルトの群舞の長所ではないので。
ノヴェール・バレエにとって同じように大きな、もっと大きなと言ってもいい事は、日本人、深川秀夫を獲得したことである。彼は、モスクワのバレエ・コンクールのアジア人の1 位で、ユルゲン・シュナイダーに見出され、東ベルリンに招かれたのである。深川は神意 である。ノヴェール・バレエのバレリーナ、ジョイス・クオコとだけは比べられようか。 彼の踊るのを見ると、彼はなんでも出来る、あるいは、まもなく全て出来るようになるという印象を持つ。彼はまさに、古典バレエ・ダンサーの体型を持つ。
逃げたと言われたコミッシュオペラのプリマ・バレリーナ、エレオノーレ・シェレスノワについては、新聞のでっち上げ記事だった。彼女はすでに長く西ベルリンに住んでいる。 亡命したのは、ソリスト、ヒルデガルト・リュールで、しかし、間もなくして、彼女は東 ベルリンに戻った。シュトゥットガルトに来たのは、同じくコミッシュオペラのソリスト、 カティ・ウルバン、我々が見る限り、ソリストの称号に価する数少ないダンサーである。 来シーズンから加わるノヴェール・バレエの誉れとなると思われる。ちなみに、彼女の夫 は、バレエ教育家、ミヒャエル・ウルバンで、すでにベーブリングの私立バレエ・スクー ルの教師の職を得た。 ノヴェール・バレエと契約した三人目の男性ダンサーはユルゲン・ハイスで、カティ・ウ ルバンと同様、東ベルリンの国立バレエ・スクール出身で、しかし彼女とは違い、ドレス デンを経てコミッシュオペラの団員になったのだった。 5人の新しいシュトゥットガルト市民は、明らかに寛容なノヴェール協会の援助のおかげで、 来たるべきシーズンが始まるまでの飢えと渇きを癒すことができ(来季になれば初めて給 料が得られる)、西側での幸せを感じている。ユルゲン・シュナイダーはギリシャでヴァカ ンスを、ユルゲン・ハイスはアメリカに居るし、深川も休暇を取り、ウルバン夫妻はシュ トゥットガルトで驚くほど早く見つかった我が家となる家の壁塗りをしている最中である。
ハインツ・ルードヴィヒ・シュナイダース