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ベルリンの一人の日本人 (1970)
ベルリンのバレエ界は尋常でない才能によって豊かになった。その若いダンサーの血筋も、 経歴も、決心も、並はずれている。深川秀夫は、日本の二百万都市、名古屋から来た。子 供のバレエ学校(週に二時間)に長く通った以外のバレエ教育は受けておらず、しかし同 時に、世界の最も大きなダンサーの一人と専門家の世界でも認められた。大きさとは、彼 の芸術である。というのは、彼は 1m67cm、55kgしかない。録画や来日公演の古典バレエ の模範が、彼を飽くことを知らぬ自己の鍛錬に駆り立てた。日本では、主に、古い民族的 な踊りか、モダンなレヴューのダンスが一般的だった。しかし、秀夫は国際バレエ・コンクールに挑戦し、1965年ヴァルナで銅メダル、1969年モスクワで銀メダル、そして、ごく 最近、パリのバレエ・アカデミーからニジンスキー賞で表彰された。彼の故郷では、1968 年の最高のダンサーとして金賞に輝いている。
秀夫はベルリンのコミッシュオペラのバレエ・マスター、ユルゲンシュナイダーの招きに 従った。シュナイダーはソ連で勉強していた時に、この若い日本のダンサーに注意を引か れたのである。「ベルリンの我々のところに、おいで!そこで、毎日、練習して、踊って、 学べる、日本のようにお金がかかることもない。」という申し出だった。秀夫がコミッシュ オペラのフェスティヴァルで踊って、ベルリンの人たちに彼の出来栄えで深い感銘を与え たと同じぐらいに、彼はコミッシュオペラのトム・シリングからの報酬にも感銘を受け、 来て、オーディションを受け、契約を交わした。規格とか学校の古臭い基準を当てはめら れたわけではないことが分かるだろう。基礎の学びや必要な職人の道具が欠けていても、 全員が一致したのである:素晴らしい団体において優れたマスターにかかれば、きっと成 し遂げられるであろうと。
家との別れは、易しくはなかった。秀夫 (22歳)は年老いた、どちらかというと保守的な 両親の8番目の子で、彼らは心配していた。しかし、モスクワのボリショイ劇場でバレエ のヴァリエーションで、観客もプレスもが彼の跳躍の軽快さ、素晴らしさを褒め称え、ガ リーナ・ウラノワやマヤ・プリセツカヤなどソ連のプリマ・バレリーナが彼を選んだとい う大成功の後、両親は彼を、大変、誇りに思っていた。そして、彼の決心に賛成した。 そして、彼が我々の下で過ごして 7 か月になる。深川秀夫は、コミッシュオペラの舞台で 「シンデレラ」「ファンタスティックな交響曲」「バレエの夕べ」「カルタ遊び」のジョーカ ーで、ベルリンの観客の前に紹介された。フリードリッヒ・パレスでは、1か月以上、毎晩、 彼が「ダッタン人の踊り」の異国の王子として、大きな舞台をところ狭しと信じられない ほど大胆に、羽根のように軽い跳躍で支配すると、観客の拍手でオーケストラが聞こえな いほどだった。秀夫は、この数か月間、多くのことを学ばなければならなかった。気候風 土の変化、筋肉痛、そして言葉の難しさは、毎日の「戦闘課題」だ。しかし、彼は早くベルリンに順応した。我々が訪ねると、彼は、まさに日本の礼儀正しさともてなしで主人役 を勤めた。色とりどりのお菓子と緑茶、海苔せんべい、箸と塗りの器でサーヴされるご飯 とサラダとソース。秀夫はベルリンについて何と言うだろうか?少なくとも想像していた ものとは違ったようだ。どう、違ったのか?日本で良く知られているドイツの童話から、 薔薇の垣根やお菓子の家、ロマンティックなお城、赤ずきんちゃん、古い木組みの家を彼 は考えていた。そして、ベルリンには、そのどれもない?いや、ベルリンはモダンな大都 市で、高層ビル、広い道路、頑丈な橋・・・しかし、彼はノイルッピンという田舎に客演 した時のことを思い出す:尖った屋根の家々、森、農家の庭、泉、鳩・・・そう、彼はそれに似たことを想像していたのだ。で、ベルリンのとくに何が素敵で、何はそうでもない のか?秀夫曰く、最も素晴らしいのは、トム・シリングの振り付けの指導の元で、能力を得る希望を持てるアンサンブルの精神と団体、そして、東ドイツのダンサーのディプロム を取ることである。素敵なのは、マッシュポテトやソーセージやベルリンの肉団子やロシ アのスープ料理ソリャンカとモダンな新しいアパートも。あまり素敵でないのは?厳しい冬、方言いっぱいの言葉、たっぷりすぎるバター、地下鉄の長い待ち時間。花は秀夫の愛 するもの。確かな腕前で植物や花を小さな芸術品に整え仕立てる。
ヘルガ・ハイネ